2006年 07月 02日
念願の草軽廃線跡をたどる(その1) |
軽井沢でここ数年来トライしては果たせてなかったことに草津電気鉄道(通称:草軽、昭和37年廃線)の軌道跡をたどるという非常にマニアックな事がある。最近の俄か軽井沢マニアにはあまり知られていないと思うが、現在の軽井沢駅から北側(旧軽方面)に向かい、ロータリーにある階段を右側に下りたあたりのみやげ物屋さん、草軽交通の本社あたりに新軽井沢という駅があり、そこから全長55.5キロの高原列車が草津温泉まで走っていたのだ。たった50キロというかもしれないが、その鉄道は、現在の軽井沢のメインストリートを貫き、それから別荘地帯を縦横無尽に駆け上り、噴煙たなびく浅間山山麓の高原地帯を疾走し、今度は北軽井沢を長野原まで駆け下り、また嬬恋高原、万座温泉まで登り、終点草津温泉まで行くという大冒険列車であったのである。全行程3時間強かかったというから、その難路を予測できよう。大正15年に全線開通。廃線まで36年間走った。
私は廃線後の生まれであるので、そのライブでの勇姿は残念ながら見たことがない。ただある時軽井沢の本屋で「写真集・草軽電鉄の詩」(郷土出版社)という本を偶然に手にし、以来軽井沢の街にその風景を重ね合わせてきた。いまでも草軽に乗車できたらと思うと胸の高まりを抑えることができない。そんな自分に現在できることは、廃線後の軌道跡をたどり当時を追体験する他に術はない。
軽井沢ファンの読者の皆様にも、追体験は可能である。例えば旧軽のロータリー(旧軽銀座の入り口)から、白糸ハイランドウェイ方向に進むとやがて見事な杉木立の直線道路になる。しばらく行くと右に旧三笠ホテルのある道をご存知であろう。その道は真ん中に杉木立があり、向かって左側が一段高くなっている。何を隠そうこの高くなっている部分が軌道跡である。そしてこの真ん中の杉木立がなくなるところで、左側に現在は三笠別荘地の入り口のロータリーがある。石で囲った中州のような場所があるところ。ここが起点「新軽井沢駅」から三つ目の駅、「三笠駅」跡地である。因みに二つ目の「旧軽井沢駅」は、旧軽ロータリーの草軽交通売店(土産物屋)と隣接するタクシー乗り場のあたり。さらに、もうひとつわかりやすい遺跡?は、北軽井沢駅跡の建物がいまも存在する。北軽井沢の町の中心にある「麗峰」という喫茶店兼スナックという店がそれである。ここが丁度10駅(全19駅)目、ここまで起点より1時間40分弱かかったようだ。
そんな草軽を支えた電気機関車が写真の「デキ12形」。現在は軽井沢駅を出て左側に。旧駅舎の記念館があるが、その前の小さなスペースに置かれている。35馬力で米国のジェフリー製。そのかたちから「カブト虫」の愛称を持つ。このカブト虫が、最大客車を1両~2両、それに貨物車両を引いて活躍した。
私は廃線後の生まれであるので、そのライブでの勇姿は残念ながら見たことがない。ただある時軽井沢の本屋で「写真集・草軽電鉄の詩」(郷土出版社)という本を偶然に手にし、以来軽井沢の街にその風景を重ね合わせてきた。いまでも草軽に乗車できたらと思うと胸の高まりを抑えることができない。そんな自分に現在できることは、廃線後の軌道跡をたどり当時を追体験する他に術はない。
軽井沢ファンの読者の皆様にも、追体験は可能である。例えば旧軽のロータリー(旧軽銀座の入り口)から、白糸ハイランドウェイ方向に進むとやがて見事な杉木立の直線道路になる。しばらく行くと右に旧三笠ホテルのある道をご存知であろう。その道は真ん中に杉木立があり、向かって左側が一段高くなっている。何を隠そうこの高くなっている部分が軌道跡である。そしてこの真ん中の杉木立がなくなるところで、左側に現在は三笠別荘地の入り口のロータリーがある。石で囲った中州のような場所があるところ。ここが起点「新軽井沢駅」から三つ目の駅、「三笠駅」跡地である。因みに二つ目の「旧軽井沢駅」は、旧軽ロータリーの草軽交通売店(土産物屋)と隣接するタクシー乗り場のあたり。さらに、もうひとつわかりやすい遺跡?は、北軽井沢駅跡の建物がいまも存在する。北軽井沢の町の中心にある「麗峰」という喫茶店兼スナックという店がそれである。ここが丁度10駅(全19駅)目、ここまで起点より1時間40分弱かかったようだ。
そんな草軽を支えた電気機関車が写真の「デキ12形」。現在は軽井沢駅を出て左側に。旧駅舎の記念館があるが、その前の小さなスペースに置かれている。35馬力で米国のジェフリー製。そのかたちから「カブト虫」の愛称を持つ。このカブト虫が、最大客車を1両~2両、それに貨物車両を引いて活躍した。
by zm-sttt
| 2006-07-02 23:40
| 本文